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2009.01.15
井伊大老の言い分
昨日の続き (←関連記事)。尊王攘夷思想。
江戸時代末期、下級武士層を中心に急速に日本に広まった。尊王論と攘夷論をリンクさせた思想。水戸の藤田東湖らがその中心だったそうだ。尊王論というてもそれ自体は江戸幕府の権威づける考え方で、徳川幕府としても危険思想とは見なさなかった。むしろ都合がよい。加えて攘夷という思想も『鎖国政策』を取る江戸幕府からすれば問題がなかった。
問題も出て来た。日本よりはるかに強大な軍事力を背景にした西洋列強の出現だ。幕府は鎖国政策を遂行するために、異国船を追い払おうにも相手が強大で、力づくで追っ払うのが難しいと判断した。
しかも西洋列強によって当時,お隣の清国が食い物にされている事実を幕府は知っていた。つまり攘夷という思想は、この時点(国力が十分でない)では適切でないと。まあ〜現実的だ。
井伊大老は考えた。
攘夷などと景気のいいこと言っても、日本の国力(軍事力)は西洋列強に比し、お話にもならない。下手に異国船を打ち払ったりすると、日本侵略の口実を与えてしまう。とりあえず、ここは列強の要求を受け入れ、日本は開国し,その間に国力を蓄え、侵略を防ごう!とプランした。結局、ハリスに脅されて(武力を背景に)結ばされた条約が、かの悪名高い日米修好通商条約である。1858年。
ちょっと話がそれる。この条約、とんでもない。なんと言っても領事裁判権と関税自主権が日本側にない。この条約を改正するのに明治維新後どれだけ苦労したのか?ちなみにこの不平等条約が改正されたのは1894年、陸奥宗光らによる。実に36年間も、アメリカ人が日本で犯罪を犯した場合、日本は日本の法律で裁く事ができなかった。
実際は”なあなあ”でその場をしのごうという考えもあったかも知れない。シナや韓国がうるさいからと言ってねつ造史実を受け入れるどこその国の”そーり大臣”みたいに。後々、とんでもなく国益を損なうことになるやも知れんのに。
といういきさつで事実上、幕府はアメリカの外圧に屈する形でなしくずし的に、条約を結び、結果的に開国した。
しかし尊王攘夷でコチコチの若い衆はそんな現実的な話より理想(より朝廷を敬いより強固な幕藩体制の確立)を求める。おまけに時の孝明天皇は攘夷思想を支持していたらしい。尊王攘夷を抱く若手下級武士はより自身の思想を揺るぎないものとしていた。
ところがそんなものを、一切かまわず、無視しことごとく旧来の幕府のやり方を変更し、現実的対応をしたのが井伊直弼だ。彦根藩出身。
繰り返しになるが尊王攘夷思想は、皇室を敬うところから始まる。これを前提に幕府は存在する。そしてその幕府を中心に外国を打ち払うというものである。もし開国となると、尊王攘夷思想家は幕府が自分たちの理想とは正反対の行動をとると見なさざるをえない。それは下手すると倒幕(現政権打破)につながる。故に井伊大老は過激な尊王攘夷思想家を徹底的に弾圧したのである。
西洋列強のアジア侵略の時代の中で、井伊直弼の行動は、日本の独立を守るためその時点としては仕方がなかったのかも知れない。井伊大老からすりゃ、お前ら、ちと目を世界に向けたらどやねん!と思っただろう。しかし短期間で成し遂げるにはどこかに無理が来るのも仕方がない。
しかしこれは表向きの正しい政争である。実際、裏では当時、将軍後継を巡った闘争も絡んでいたようだ。つまり『井伊直弼=開国派=紀州徳川家茂擁立派』versus『徳川斉昭=攘夷派=一橋慶喜擁立派』それぞれを支持するグループ同士での水面下での争いがこの開国論争により激しいものに変えたみたいだ。いわゆる権力闘争、政局みたいなやつだ。もっとも最近の日本ではこちらがメインみたいだが。
井伊直弼のやり方には批判も殺到した。命の危険も迫っていた。側近は大老職をやめてしばらくしてから幕政に戻ったらどうか?と助言したが、当人は国家の仕事を成し遂げるのに命をかけずしてどうする、と答えたそうだ。
江戸城への出勤に際しても、護衛の武士を増やす意見も出たが、『大老が幕府の規則を守らずにどうする』と、あくまで井伊は規則に定められた範囲内の人数を変えなかった。どうにも悪役感のある井伊直弼だがかなり正々堂々とした武士だったのだろうと思う。こんな話を知ると井伊直弼のかたを持ちたくなってしまう。立派な人物だ。
当事者はともかく、おもろい時代ですな。ということでこの時代を自分なりに整理してみた。少し井伊直弼に関して読んでみたくなった。
江戸時代末期、下級武士層を中心に急速に日本に広まった。尊王論と攘夷論をリンクさせた思想。水戸の藤田東湖らがその中心だったそうだ。尊王論というてもそれ自体は江戸幕府の権威づける考え方で、徳川幕府としても危険思想とは見なさなかった。むしろ都合がよい。加えて攘夷という思想も『鎖国政策』を取る江戸幕府からすれば問題がなかった。
問題も出て来た。日本よりはるかに強大な軍事力を背景にした西洋列強の出現だ。幕府は鎖国政策を遂行するために、異国船を追い払おうにも相手が強大で、力づくで追っ払うのが難しいと判断した。
しかも西洋列強によって当時,お隣の清国が食い物にされている事実を幕府は知っていた。つまり攘夷という思想は、この時点(国力が十分でない)では適切でないと。まあ〜現実的だ。
井伊大老は考えた。
攘夷などと景気のいいこと言っても、日本の国力(軍事力)は西洋列強に比し、お話にもならない。下手に異国船を打ち払ったりすると、日本侵略の口実を与えてしまう。とりあえず、ここは列強の要求を受け入れ、日本は開国し,その間に国力を蓄え、侵略を防ごう!とプランした。結局、ハリスに脅されて(武力を背景に)結ばされた条約が、かの悪名高い日米修好通商条約である。1858年。
ちょっと話がそれる。この条約、とんでもない。なんと言っても領事裁判権と関税自主権が日本側にない。この条約を改正するのに明治維新後どれだけ苦労したのか?ちなみにこの不平等条約が改正されたのは1894年、陸奥宗光らによる。実に36年間も、アメリカ人が日本で犯罪を犯した場合、日本は日本の法律で裁く事ができなかった。
実際は”なあなあ”でその場をしのごうという考えもあったかも知れない。シナや韓国がうるさいからと言ってねつ造史実を受け入れるどこその国の”そーり大臣”みたいに。後々、とんでもなく国益を損なうことになるやも知れんのに。
といういきさつで事実上、幕府はアメリカの外圧に屈する形でなしくずし的に、条約を結び、結果的に開国した。
しかし尊王攘夷でコチコチの若い衆はそんな現実的な話より理想(より朝廷を敬いより強固な幕藩体制の確立)を求める。おまけに時の孝明天皇は攘夷思想を支持していたらしい。尊王攘夷を抱く若手下級武士はより自身の思想を揺るぎないものとしていた。
ところがそんなものを、一切かまわず、無視しことごとく旧来の幕府のやり方を変更し、現実的対応をしたのが井伊直弼だ。彦根藩出身。
繰り返しになるが尊王攘夷思想は、皇室を敬うところから始まる。これを前提に幕府は存在する。そしてその幕府を中心に外国を打ち払うというものである。もし開国となると、尊王攘夷思想家は幕府が自分たちの理想とは正反対の行動をとると見なさざるをえない。それは下手すると倒幕(現政権打破)につながる。故に井伊大老は過激な尊王攘夷思想家を徹底的に弾圧したのである。
西洋列強のアジア侵略の時代の中で、井伊直弼の行動は、日本の独立を守るためその時点としては仕方がなかったのかも知れない。井伊大老からすりゃ、お前ら、ちと目を世界に向けたらどやねん!と思っただろう。しかし短期間で成し遂げるにはどこかに無理が来るのも仕方がない。
しかしこれは表向きの正しい政争である。実際、裏では当時、将軍後継を巡った闘争も絡んでいたようだ。つまり『井伊直弼=開国派=紀州徳川家茂擁立派』versus『徳川斉昭=攘夷派=一橋慶喜擁立派』それぞれを支持するグループ同士での水面下での争いがこの開国論争により激しいものに変えたみたいだ。いわゆる権力闘争、政局みたいなやつだ。もっとも最近の日本ではこちらがメインみたいだが。
井伊直弼のやり方には批判も殺到した。命の危険も迫っていた。側近は大老職をやめてしばらくしてから幕政に戻ったらどうか?と助言したが、当人は国家の仕事を成し遂げるのに命をかけずしてどうする、と答えたそうだ。
江戸城への出勤に際しても、護衛の武士を増やす意見も出たが、『大老が幕府の規則を守らずにどうする』と、あくまで井伊は規則に定められた範囲内の人数を変えなかった。どうにも悪役感のある井伊直弼だがかなり正々堂々とした武士だったのだろうと思う。こんな話を知ると井伊直弼のかたを持ちたくなってしまう。立派な人物だ。
当事者はともかく、おもろい時代ですな。ということでこの時代を自分なりに整理してみた。少し井伊直弼に関して読んでみたくなった。
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